人魚の眠る家

脳死と判定されれば、遺体として扱う事になります。」

脳死と心臓死。どちらを死とするのか選ぶ権利がある。」

「ロボットより自分の身体を使って生活した方が、人は生きる喜びを感じられる。」

「おばあちゃんの残りの人生を瑞穂ちゃんにあげる。」

「科学技術は人を救える。」

「科学者にとって思い込みは、最も愚かな行為だ。」

「人は食う為に可愛がり、食う為に育てる。身勝手な欲望が人類を発展させて来た。」

「人間の技術が許される範囲がある。お前のやっている事は、その領域を超えている。」

「世界中が目覚めないと言っても、私は奇跡を信じる。」

「自分達がドナーが現れる事を喜ぶのは止めよう。」

「既に死んでいるこの子を殺したら、私は殺人罪に問われますか?」

「この子が生きているのか死んでいるのか国に決めてもらいます。」

「人は二度は死なない。」


人間には踏み越えられない領域がある。

それは、良し悪しの問題ではなく、可能か不可能かの問題でもある。

全てにおいて人間が答えを出せると考えるのは、傲慢とも思える。

何をもって生とし、何をもって死とするのか。

突き付けられる問いは、あまりに重い。

脳死

臓器提供を希望するならそれは死であり、希望しないなら死ではない。

その理屈は俄かには納得し難い。

彼女は生きているのか、死んでいるのか。

延命措置を続けるべきか否か。

どちらの考えにも共感する部分はある。

何が正しいのかは分からない。

それでも…。

ラストの暴走は、曖昧な理屈に対する感情の必死の抵抗だったのではないか。

結局、人に出来るのは、

死を判断する事ではなく、死を受け入れる事の様に思う。

納得して受け入れた時が、その人にとっての死なのだ。

凄まじかった。

とてつもないものをぶつけられた感じがした。

現時点で、今年の邦画ナンバー1と言ってもいい作品だった。