『罪と罰』
映画の『手紙』を見てから、改めて考えました。
『罪と罰』
過去に一度、この事に深く悩み、深く考えた事がありました。
それは、自分がしてしまったある出来事がきっかけでした。
ある日、私は自転車を飛ばしていました。
パラパラと雨が降る中、片手でハンドルを持ち、片手で傘を差しながら。
その日は、どうしても観たい映画があったこともあってかなり急いでいたのです。
すると、前の方から3人組の学生たちが横並びで歩いてきました。
道幅は狭く、うまくすれ違えるか微妙なところ。
「ザッ!」
すれ違う瞬間、明らかに自分の持っていた傘が何かにあたる感触を感じました。
「じゃまなんだよ!広がって歩きやがって!」
急いでいた私は、軽く腹を立てながら、無かった事にでもするかのように、
その場から走り去りました。
その直後です。
自分の後方で、救急車のサイレンの音が鳴っているのを聞いたのは。
別に関係ない。
気にせず一旦家に戻った私に、途轍もない不安が押し寄せてきました。
「あの救急車のサイレンは、一体何だったのか?」
あまりの胸騒ぎに、映画どころではなくなった私は、
急いで、先ほど傘がぶつかった場所に引き返す事にしました。
もしや、あの接触が… 位置的に傘の先が相手の目に当たってしまったんじゃないか…
血を流し救急車を呼んだんじゃないか… まさか失明なんて事に…
自転車を飛ばしながら、いろんな事が頭をよぎりました。
数分後、その場所に戻ってみると、そこには誰の姿も無く、何かあった様子もありませんでした。
「ここに救急車来ませんでしたか?」
私は、近くにいた人に尋ねました。
「来てないと思うよ」
その言葉を聞いても、不安を消せなかった私は、
しばらくその場所を確かめ、周辺を見てまわりました。
しかし結局、あの後、あの場所で、何があったのか、確かな事はわかりませんでした。
おそらく状況からして、何も無かった可能性のほうが高かったとは思うのですが。
その後、私は、激しい罪の意識と後悔を感じる事になりました。
「なぜ、私はあの時、あの場所から、そのまま走り去ってしまったのか。」
ぶつかった事よりも、その事が自分の中でずっと引っかかり続けました。
「すみません。大丈夫ですか?」
なぜ、一度止まって、その一言を言う事が出来なかったのか…
後になってしまっては、もはや誰かも分からず、二度と会うこともない。
謝罪をする事も出来なければ、許しを請う事も出来ない。
「罰してくれ」
そんな感情が自然と湧いてきました。
この時ほど『罪と罰』という事を意識したことはありませんでした。
その時、思い至った事は、
ということでした。
事の大小ではなく、自ら『罪』の意識を感じたものは、『罰』という報いを欲するんだと思ったのです。
だからこそ、キリスト教のような「懺悔」というものがあるのだろうと思います。
「許される」ということは、人間の最も安らげる状態なのかもしれません。
でも、「許される」というのは、どんなに頑張っても一人の力ではどうにもなりません。
自分が許されるためには、自分を許してくれる相手が必要になります。
しかしその相手がいない時、謝る事すら出来ない時、
置き所の無い不安定な『罪』の意識を持ち続ける事ほどつらい事はないのかもしれません。
だったら、『罰』を受けた方がよっぽど救われる。
『罪と罰』とは、そういう関係にあるんだと、思うようになりました。
あの出来事がなかったら、実体験からそう思うに至ることは無かったかもしれません。
このことに、簡単に答えがあるとは思いません。
答えを探しに、ドストエフスキーを読んでみたくなります。
文学は哲学よりも深い
ある人のこんな言葉が頭を過ぎります。