ソロモンの偽証後篇・裁判

「自分の罪は自分で背負っていくしかない。いつか乗り越えるために。」

「年をとれば、大体の事では傷付かなくなるし、自分を誤魔化すのも上手くなる。」

「心の声に蓋をすれば、見たいものしか見なくなり、

信じたいものしか信じなくなる。それが一番恐い事だ。」


そもそも何故、裁判だったのか。

それも中学生による裁判でなければならなかったのか。

終始気になっていたその答えは、

本来「裁判」というものが有する意義が明らかになるのと並行して見えてきた。

罪を犯した人間の誰しもが、罰から逃れたいと願っているとは限らない。

罰を受ける事で救われる事も有り得る。

罪に対して罰が必要なのは、罪を犯した人間にこそ言えるものかも知れない。

また、裁判を通して真実を明らかにする事。

それも単純に結果だけが明らかになればいいという訳ではない。

真実を追求していく過程で、何を感じ、どう変化していくかが大切なのだろう。

それをより強く感じ取れるのは、やはり大人よりも多感な子供にこそ当て嵌まる。

中学生が裁判を開く意味。

それが見えた時、本作の核心に触れた気がした。