スポットライト世紀のスクープ

「新聞はどこにも偏らず、自立すべきだ。」

「神様に“ノー”と言えますか?これは肉体的だけではなく精神的虐待だ。」

「子供を育てる者は虐待もする。」

「小さな悪のために、多くの善は捨てられない。」

「正しい側に立て。」

「悪党でも守るのが、弁護士の仕事だ。」

「これを記事にしたら誰が責任を取るんだ。

では記事にしない場合の責任は?」

「我々は、暗闇の中を、手探りで歩いている。

そこに光が射す事で初めて、間違った道だという事を知る。」


教会は、いつの時代も世界中に存在している。

だからこそ、この問題は、過去の事件でも、ボストンに限った事件でもない。

いつでも、どこでも、これまでに起こっていた、そしてこれからも起こり得る問題である。

そう考えると、一つの街の新聞社の為した事の価値を改めて感じられる。


特ダネを出すのは、掴んだ時に直ぐ出せば可能だ。

ただ世界を変えるためには、個人の問題で終わらせてはならない。

だからこそ、いつ、何を、どの様に出すかにもジャーナリズムの真価が問われる。


とは言え…。

まず、光を射す事。

それこそがジャーナリズムの最大の使命なのだろう。

悪者の糾弾も、弱者の救済も、その次の問題だ。

暗闇の中にいて、光が射さなければ、

自分の今いる道が正しいのか、間違っているのかも分からない。

この記事によって、やっと声を上げられたのか、やっと問題に気付けたのか。

ラスト、編集部にかかってきた電話の多くが、

批判でも、称賛でもなく、被害者からのものだったという事に鳥肌が立った。