プライベート・ウォー

「恐怖を認めれば、目的とする場所には決して行き着けない。」

「恐怖は全てが終わった後に来る。」

「戦争報道とは、人が死ぬ、自分が死ぬかも知れない場所に行く事。」

「恐怖を感じても、一歩前に踏み出し、苦しみを記録する。」

「特ダネを追う以外にどんな人生がある?」

「死者に敬意を。」

「人は人と繋がっている。だから人々の物語を書く。他はどうでもいい。」

「君は戦場を見過ぎた。真剣に向き合わないと。」

「戦場にいるのは大嫌い。でも駆り立てられる。この目で見ずにはいられない。」

「最も困難なのは、この記事を読んだ人々が関心を持つと信じる事。」

「戦っている全ての勢力が真実を曖昧にしている時、

何が起こっているかを人々に伝えられなければ取材は失敗だ。」

「老いた記者と大胆な記者がいる。だが老いて大胆な記者はいない。」

「戦場が一番居心地がいいのかも知れない。」

「子供が殺されている事を世界に伝えて。」

「アサド政権は嘘をついている。この映像がそれを証明している。」


無論ジャーナリストも人間である以上、恐怖を感じない筈は無い。

ジャーナリストが戦場に行く理由は、使命感の一言で終わる程単純ではない。

もしジャーナリストに感情が無かったとしたら、

戦争報道がより精度を増すかと言ったら、決してそうはならないだろう。

感情が無ければ、見るべき光景も見えず、

聞くべき声も聞こえず、知るべき真実も分からない。

感情の無い者に、感情を動かす言葉は生み出せない。

感情を全開にして現場に行き、その場にある苦しみや悲しみを

自分自身で感じるからこそ、それを伝えられる。

即ち普通に生活していれば感じる事の無い感情と思い切りぶつかる事を意味する。

決して戦場が好きな訳ではない。

それでも行かずにはいられない。

考えてみれば、それが苦しく無い筈が無い。

戦場と世界をジャーナリストがどれだけ身を削って繋いでくれている事か。

戦場に存在する生々しい苦しみや悲しみ。

それらと対峙する記者の葛藤を圧倒的な臨場感で見せてくれた。

見終わった後、ずっしりと重い物を背負わされた様にも思えた。