天空の蜂

「技術者の家庭に必要なのは、机と椅子だけだ。」

「家族を守れない者に、父親の資格は無い。」

「家族っていうのは、血を流して、のたうちまわってやっと守れるものなの。」

「仕事には、無くては困るのに、無くていいと言われるものがある。」

「俺は原発を売っているんじゃない。技術を売っているんだ。」

「蜂は自分の巣を守るために、囮を飛ばす。」

「電気は人命より重い。」

「思い知らせてやるんだ。沈黙する群衆に。」

「お前は技術者だ。その銃は作れても、引き金を引く覚悟はない。」

「負けてこの国が救われるなら、喜んで負ける。」

「原子炉は、人類に微笑みもするが、牙を剥く事もある。微笑みだけを望むのは傲慢だ。」

「痛みを伴わない想像力は、ただの甘い夢に過ぎない。」

「沈黙する群衆に原子炉を忘れさせてはならない。」

「子供は蜂に刺されて初めて、蜂の恐ろしさを知る。」

「次もダイナマイトが10本とは限らない。」


人は、凶器を作ろうとして、凶器を作るとは限らない。

得てして、善意によって生み出された者が、時として凶器へと変貌する。

その事を、十分認識しておかなくてはならない。

ここに描かれた犯人は、確かに三島なり、雑賀かも知れない。

では果たして悪人は誰か。

それは即ち政府であり国民、まさに沈黙する群衆と言ってもいい。

利権を守るために平気で嘘をつく政府と、

見たくないものは見ようとしない国民に対して、

原発が突き付ける刃は、鋭く重い。


1995年の時点で、この原作を生み出した東野圭吾氏はすごいが、

映画としては、今だからこそ作られて意味があるのだろう。

これが3・11以前であれば、よりフィクションだと割り切って見ていた様に思う。


スリルと興奮という映画としての圧倒的なエンターテイメント性に加え、

胸に突き刺さる様な社会的メッセージがある作品がやはり大好きだ。

映画的な面白さだけでは、どこか満たされないものがある。

その両者を兼ね備えた本作は、非常に良かった。


改めて原作は読みたいと思う。

取りこぼしたものを含めて、言葉としてのメッセージをじっくりと味わいたい。