違和感

昨日、発生した秋葉原での無差別殺人事件。

一夜明け、終日特集されていた報道を見て、

何度「最悪だ」とつぶやいたか知れない。

たとえ犯人にいかなる事情があったとしても

それが社会の歪が生んだ結果だったとしても

仮に同情の余地があったとしても

無関係で被害に遭われた人たちの側に立てば

それは、決して許されるものではない

そこに関して、100%疑いの余地はない。



ただこうした事件が起こる度に、そしてその報道を見る度に、

どうしても引っかかる“違和感”がある

「どうしてこんな事をしたのか理解できない」

平然とそんなことを言っているコメンテーターがいる

よくそんな乏しい想像力でコメンテーターをやっているなとあきれてしまう。

果たして本当に犯人の感情を想像することも出来ないんだろうか?

世の中が嫌になる

他人が敵に見えてくる

もうどうでもよくなる

人間である以上、負の感情に襲われることは必ずある

その“感情”を持つことを否定する

その“感情”を持った時点でありえないことだ

そんな雰囲気を感じたとき、たまらない違和感を感じる



つまり注目すべきは、

「犯行に駆り立てた感情ではなく、その感情を制御できなかった理性にある」

と思う。

どうしようもない衝動に駆られた時、

「ちょっと待った!」

と自分自身を立ち止まらせる理性。

負の感情を抱かないように教育し、生活していくのではなく、

負の感情をちゃんとコントロールするための理性こそが大切なんだと思う。

もちろんその理性は、実生活から得た感覚として身に着けるのが望ましいけれど、

人間関係が希薄でそれが出来ない場合は、

受験勉強の暗記のごとく頭に叩き込んでおくべきだ。

「人を殺してはいけない」



マスコミで「理解できない」という空気を蔓延させてしまうと、

今回の犯人と似たような感情に苛まれている人間はますます追い込まれてしまう。

「誰もわかってくれないんだ」

それが、積もっていくとどこかで爆発してしまう。


教育にしろ、報道にしろ、

「理解できない」ではなく「理解はできる。しかし」の姿勢が

求められているんではないだろうか?