「労働者」 と 「当事者」

アウトサイダーでいると仕事は「労働」となるが、

当事者になれば「プレイ」になる。

給料が同じなら、仕事はできるだけやりたくないと思うとしたら、

その仕事は「労働」に近いものだろう。

―――松永真理

2種類ある仕事のあり方。

「労働者」としての仕事と「当事者」としての仕事


「労働者」の場合、働く目的は仕事の外部にあることが多い。

お金のため、誰かのため、仕事以外で自分の楽しみを叶えるため…

仕事で嫌な事があっても、その目的が外部にあれば、

目的を見失う事無く、辛さに耐えられるかもしれない。

「言われた事こなす」

自尊心など度外視すれば、責任がない分、追い詰められる事も無いのかもしれない。

もちろん、耐えるばかりじゃなく、その中に楽しみを見出す事も出来る。

あの人のおかげで働けているから、その人のためにもというのも含まれるかな。

ただ、突き詰めていくと、どこかで思っている。

「あんたのためにやってやってるんだよ。」

「もらうものもらえれば、どうなろうと別に関係ないから。」


でも、いつかは誰しも、その状態から脱皮を迫られる時が来る。

自分が仕事の「当事者」になる時が。

これは何も、労働者を使う側になるという事じゃない。

仕事を自分自身の血として肉として、仕事の内部に目的を持って、

誰かのためではなく、自分のために働く。

責任もあり、言い訳も出来ない。

真正面から向き合って、「これは俺の仕事、文句あるか!」と言える位の覚悟がいる。


当然、そんな「当事者」になれる仕事を見つけ、ぶつかる事が出来たら幸せだと思う。

ただそんな仕事を見つけ出し、覚悟を決めることはとても難しい。

自分がやりたくて、しかも自分に向いていて。


例えば今、ここで言う「労働者」としてしている仕事があるとする。

そしてこのまま続けていけば、その延長線上に

「当事者」としてするような仕事の道が開けているとするならば、

普通の人だったら、迷わずそのまま進んでいくんだろうか?

この仕事。

「労働者として」だったらいいけど、「当事者として」となると、ちょっと待って!

ちょっと、その前に一旦考えさせて。

そんな風に考えるのは、おかしな事なんだろうか?

「当事者」になる覚悟がないままに「労働者」としての意識のままで


「当事者」の仕事を始める事に途轍もない「危うさ」を感じてしまう。


働きたくなくなったわけじゃないし、むしろ働きたい。

ただ、納得して働きたい。


「甘ったれるな!」 「もったいない!」 「ここで止めたら終わりだよ!」

そんな声が聞こえてくるだろう事を承知した上で、

「一旦、充電したい。」

「今一度、自分自身を見つめなおしたい。」

「もしこの仕事を継続するのなら、『当事者』として関わっていく覚悟を決めるためにも!」

という思いに、

人には伝わらないかもしれないけれど、自分の中ではものすごく必要性を感じるこの思いに、

一言「いいよ。」と、言ってくれる人はいるんだろうか?