“迷惑”という死

二日前の月曜日。

いつものように仕事を終え、駅の改札を抜けると、

目の前の電光掲示板に合わせるかのように、駅構内にアナウンスが流れた。


「ただ今、総武快速線は、

新小岩駅で起きた人身事故のため大幅な遅れを持って運行しております。」


“人身事故”

電車を生活の足にする人間にとって、それは決して耳馴染みのない言葉ではない。

ただ、今はどれだけの人が、その言葉から「事故」を連想するだろうか。

「おそらく…」

自分自身そんな予感を抱きながら、

慌てても仕方がないと、少し時間を潰すことにした。


約1時間ほどして、改めて駅へ向かうと、依然としてダイヤは乱れたまま。

現在の状況を知るため、ツイッターを開き「新小岩」と検索をかけてみる。

そのタイムライン上で

今回の事故が、一人の男性の飛び込み自殺であった事を知ることになった。


http://www.sanspo.com/shakai/news/110725/sha1107252153020-n1.htm


予感をしていたとは言え、やはりいい気持ちはしない。

さらに、ニュース記事と一緒に並ぶ無数の言葉が目に入る。



「エーッ!また新小岩駅で人身事故?!この駅、恐ろしすぎる・・・」

「またダイヤ乱れでひどい目に会った。」

「他人に迷惑をかけるような自殺の方法はやめよう。」

「この繁盛期に経済の邪魔するんじゃねーよ。死ぬならひっそりとタヒね。」

…………



そこにあったのは、まさに「迷惑」という言葉に置き換えられた人の死の姿だった。





そして今日、時間を経て、改めて思い起こしてみると、

様々な問いが頭を過った。



「人一人の命が、これほど無数の人間から嫌悪の対象になっていいのだろうか?」

「人生の終わりに、数万人の人から恨みを買ってしまうほど彼は悪いことをしたのか?」

「見ず知らずの人間の死であれば、無責任に何を言っても許されるのか?」



おそらく自殺の手段として、

『電車への飛び込み』を選択する人の中にあるのは、
 
『死にたい』という思いだけではないように思う。

最後の最後に、死をもって社会に復讐をしたいと願ったのであれば、

この反応はまさに本望と言えるのかも知れない。

ただ、懸命に生きてきた人生の結末が「迷惑」であるということでは、あまりに悲しい。



正直、自分自身、電車を利用する一人として、

電車の遅れを迷惑に感じないかと言ったら嘘になる。


ただ、それでも、


「電車の遅延」と「命の喪失」

その両者を天秤にかけた時に、前者が重くなる社会や考え方というのは、

何か大切なものを置き去りにしているような気がしてならない。