水曜日

もう際限なく気持ちが落ち込んでいくのを感じるのは、

決まって「水曜日」だ。

やらなければいけないことがあり、時間に追われている時の方が、まだいい。

ちょうど週の真ん中で、“ユトリ”が出来てしまうのがこの水曜日だ。

だんだんとそれがわかってくると、

水曜日が来ただけで、朝から憂鬱な気分になることがある。

それに追い討ちをかけるような、「この時期」

寒さに震えながら、もうすぐやってくる「4月」という変化の季節に

せっつかれているような“焦り”が

打ち寄せる波のように間隔をあけて繰り返し、繰り返し襲ってくる。

特に先週の水曜日はひどかった。

本当にこのまま死んでしまいそうなほどの落ち込みだった。


悲しいかな、人間というものは考える時間があると考えてしまうものだ。

考えなくてもいいような事まで考えてしまう。

時に思う。

「どうせ俺なんて」

開き直りではなく、そう思う事が出来たら、どれだけ良いだろう。

理想さえ抱かなければ、どれだけ現実を素晴らしいものだと感じられるだろう。

でも、そうはいかない。

考えれば考えるほど、理想は現実を蝕んでいく。

「このままでいいのか?」

「こんなことをするために生きてきたのか?」

具体的なものが見えていなくても、

何となく満たされない現実があるから、“悩み”も存在してしまうんだろう。


先日、ふかわさんの本を紹介しました。

すべてが順調だったら 文章を書くことにも 曲を作ることにも

出会っていなかったと思う。

滅多に新刊の本は買わないのに、僕はこの言葉に浮かされてしまった。

とにかく、「この言葉に救われた」気がしたんです。

この言葉の逆を返せば、

もしこの思いを文章や曲に表現することが出来れば、

順調にいかない人生も、何かしらの意味を持ち、救い上げることが出来るんじゃないか?

“表現する”という事は、きっとそういう事なんだ。


そういえば、もう一つ書いておきたい事があります。

先週の水曜日、死んでしまいそうなくらい落ち込んでいた時に、

それに出会い、全てが一掃されていくような経験をしました。

それはまるで、地獄の底で悪人のカンダタが“蜘蛛の糸”を見つけるような感覚でした。

「三月は深き紅の淵で」

恩田陸さんの書いた小説です。

四部構成の第2章を読み終え、第3章を読み始めた時、

この小説の持つ“大いなる仕掛け”がフッと自分の中に入りこんでくるのを感じました。

「すごい!」

もうあまりの感激に頭の中で、その言葉しかループして来ないほどに。

それまでに悩んでいたことが忘れてしまうくらいに。

“芸術が人を救う”

そんなことが本当にあるんだ。

どんなストレートな慰めや応援よりも、

圧倒的な表現というものは、どれだけ生きる希望を与えてくれるかわかりません。


表現することは、自分自身を救ってくれる。

さらにその上の表現というのは、見ず知らずの誰かすら救ってくれる。



書いているうちに、筋がずれてしまいました。


「水曜日」

苦しいほどに悩まされるのも水曜日なら、

新しいことに気づかされるのも水曜日なのかも知れません。


とりあえず、思い切り書いたことで少しすっきりしました。